この「三つの即興曲」作品7が書かれたのは、バークリーがブーランジェ女史のもとでの研鑽を積みパリからロンドンに戻ってきた1935年になります。“かつてのようにパリで暮らせたらどんなにいいかと思う・・。人生の大半をロンドンで過ごしたが決してパリのようには好きになれなかった。”この引用文はバークリーの日記、1981年4月1日付けのもので、彼が如何にパリの街を愛していたかが伝わってきます。バークリーは1929年から1934年のパリ時代、18回にわたり“月刊音楽レコード”に当時の音楽事情を寄稿しており、同時代の作曲家の作品への印象が記され、彼がどのようにこれらの作品から音楽的影響を受けたかが読み取れます。1929年、バークリーはパリでの“ファサード”(ウォルトン作品)の初演に立会い、ウィットと色彩感あふれるウォルトンのイマジネーションに胸打たれ、また、ストラヴィンスキーの“管楽八重奏”は「彼のこれまでの作品中でも最も優れている・・」とも述べています。そして“フランス6人組”のオネゲルの“チェロ・コンチェルト”(1930)を愛し、アメリカの作曲家、コープランドの卓越した作曲技法についても触れています。
またこの頃、ディアギレフの「ロシア・バレエ団」がパリで活躍し、ドビュッシーやラヴェルも彼らの代表作となる作品を書き上げていますが、このバレエ団によって世界的な名声を手に入れたのはパリで活躍したロシア人のストラヴィンスキーでした。バークリーはパリにおけるストラヴィンスキーの“詩篇交響曲”(1930)の初演(1931年)で衝撃を受け、特にそのスケールの大きさ、そして何よりも彼独自の個性を失うことなく全く異なるスタイルを次々と生み出すその才能に驚きと共感を示しました。ストラヴィンスキーはロシア・バレエ団の委嘱により初期の三大バレエ音楽“火の鳥”(1910)、“ぺトルーシュカ”(1911)、“春の祭典”(1913)を作曲した後、“新古典主義”へとその作風を新たにしました。1920年からおよそ30年にわたって書き上げられた数多くの作品群はストラヴィンスキーの“新古典派音楽”の時代として知られています。その代表作には舞踏曲“プルチネラ”(1920)、“ミューズの神を率いるアポロ”(1928)、“妖精の口づけ”(1928)などがあり、これらの作品群は従来の浪漫派音楽への傾倒、概念をくつがえす新機軸となる重要な役目を担いました。バークリーの“三つの即興曲”、作品7は彼が1930年代初頭にパリでストラヴィンスキーの新作に触れ感銘を受けた後の作品です。抑制の効いた楽曲は躍動感を伴いながらも、ストイックな要素を含んでおり、作品の背後にストラヴィンスキーのアイロニーを感じさせます。ストラヴィンスキーに代表される新古典主義の傾向は特にパリを中心にフランスで開花していき、バークリーに限らず、20世紀初頭から第二次大戦勃発前にパリで活動していた作曲家に絶大なる反響をもたらしました。バークリーの初期(1930年代初頭)の作品はバロックへの回帰を試みたスタイルを示唆したものも多くみられます。この“三つの即興曲”作品7の他に、“フルートとオーボエ、弦楽の為の組曲”(1930),“フルート、オーボエ、ピアノのためのトリオ”(1935)、1930年代の作品ではありますが明確な作曲年が定かでない“クラリネットの為の三つの小品”などがこの頃の作品例として挙げられます。
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