1935年はバークリーがブーランジェ女史のもとでの修業を終え、フランスから英国に戻った年で、この“三つのピアノ曲”作品2はその年の作品にあたります。“エチュード”“子守唄”そして“カプリッチオ”と三つのタイトルが示すように、それぞれが全く異なる独創性をもつ作品です。バークリーの色彩感溢れる調性への感覚、オリジナリティーそして彼の創作への意欲が伝わってきます。三曲はいずれも小品ですが、どこか大曲の一部であるかのようなスケール感に満ち溢れていることも、この楽曲のユニークな特質と言えるでしょう。1934年にバークリーの
“子守唄”と“カプリッチオ”に触れ感銘を受けたハリエット・コーへン[Harriet Cohen(1895〜1967)―王立音楽院RAMで学んだ当事の女流ピアニスト、アーノルド・バックスと親しく、ヴォーン・ウイリアムズなど当代の多くの英国作曲家が彼女のために曲を書いています。]は彼に曲を作ってほしいと依頼しました。この依頼を受けて書き上げられた“エチュード”をバークリーは、“三つのピアノ曲”の第一番として彼女に献呈し、全三曲の完成となりました。二曲目の“子守唄”は英国作家サマーセット・モームの友人アラン・サールに献呈されています。バークリーは当事の英国作家、サマーセット・
モーム(1874〜1965)、W. H. オーデン(1907〜1973)らとも交流をもち、文学や詩にも深い造詣を示しています。またW.
B. イエーツ、A. E. ハウスマン、W.デ・ラ・メア、そして17世紀の詩人ロバート・へリックなどの詩をもとにいくつかの歌曲を残しました。またアラン・サール(Alan
Searle)の紹介でバークリーはピアニスト、ハリエット・コーへンと知り合っています。 三曲目の“カプリッチオ”はバークリーのオックスフォード時代にフラットシェアをした友人ヴィエ・ピルキントンに捧げられています。ピルキントンのために書かれた小品は数曲あり、いずれも初期の作品で作品番号はありませんが、オックスフォード在学中に書かれた“マーチ”(1924)、“ピルキントンのTOYE”(1926)、“ヴィエのために”(1927)、そして“ハープシコードの為の組曲”(1930)などがあります。ピルキントンはハープシコードの優れた演奏家でした。作品2の第三曲目“カプリッチオ”、オリジナルの楽譜
には‘ヴィエへ:“コート・ダ・ジュールの想い出”、レノックスより’との書き込みがあります。 バークリーとピルキントンは、双方の家族が友人関係にあったこともあり、南フランスで共に休暇を過ごすことがありました。彼らは1925年の3月にはモンテ・カルロのオペラにてドビュッシーの“ペレアスとメリザンド”(1892)を共に観賞しています。
ところで、この“三つのピアノ曲”作品2が作曲された1935年には、バークリーの重要な作品の一つであるオラトリオ“ジョナ”作品3が書かれています。バークリーはこの作品に1933年から取り掛かり1935年に完成しましたが同年には彼の両親は二人とも他界しており、オラトリオ“ジョナ”は両親に捧げられています。バークリーは1929年にローマン・カトリックに改宗しており、以後、音楽における宗教的精神の重要さを作品に反映させていきます。バークリーにとってこの作品3“ジョナ”は聖書のテクストや礼拝の式典に関わる宗教音楽への最初の大きな試みだったようです。
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