でしょう。「イギリス君主が自国の作曲家にオペラを委嘱するのは歴史上始まって以来の出来事だ。」このようにヴォーン・ウィリアムズは当時このオペラに関してタイムズの記事に書きました。
エドワード・ベンジャミン・ブリテンは1913年11月22日(“聖チェチーリア”音楽の聖人の祝日)、サフォーク州のロウストフトに生まれました。父親は成功した歯科医でブリテンの才能は幼少期、少年時代を過ごした生家で励まされ育まれました。ブリテンは5才の頃から作曲を始めるようになり、自ら五線譜に書き込んだ音符の連なりが非常にエキサイティングに思われたと後に自身が語っています。ピアノを7才から始め、三年後にはヴィオラを弾くようになり、この頃からブリテンの両親は子供の音楽家としての将来を真剣に考えるようになります。彼のごく初期の音楽的スケッチ、ミニチュアのトーン・ポエムズ(主に少年を取り囲む身近で日常的な出来事を題材にしたもの)などありきたりのものだったと後に自身が回想していますが、それでもこの初期の作品には、ブリテンの音楽的才能またその特徴が十分に顕われています。ブリテンは作品を通して何を言うべきか、明確なアイデアを持っており、そのために細心の注意を払いました。幼少期より彼にとって音楽での自己表現は、例えば会話をするように極めて自然な行為であり、14才を迎える頃には10のソナタ、6つの弦楽四重奏、オラトリオ、数々の歌曲、そしていくつかのピアノ曲を作曲しました。
ブリテンの父は息子の純粋な作曲活動に支障をきたすと感じ、家には蓄音機やラジオなどの機械を一切置きませんでした。おそらくブリテンはこういった機械に影響を受けないで育った最後の世代の作曲家ともいえるでしょう。1924年、11才になるブリテンはノリッチ(Norwich)の音楽祭でフランク・ブリッジの清新な作品『海』に出合い深い感銘を受け、それから三年後に彼はブリッジの下で学ぶことになりました。このことは後の作曲家ブリテンにとって非常に重要で貴重な経験となりました。「心にあるものと五線譜に書けているものとの明確な繋がり」を、若いブリテンに徹底的に植えつけ「技法への野心への感覚」を備え付けさせたのも、このブリッジでした。ブリテンは15才まで私立予備校でテニスやクリケットなどスポーツも好んで有意義な少年時代を過ごし、その後ホールトにあるグレシャム校に入学しました。この学校には二年間だけ通い、17才を迎える前の1930年に王立音楽大学へスカラシップ(奨学金)を得て入学し当初はジョン・アイアランドの下で学びました。音楽に没頭できる環境へ期待と夢を膨らませていたブリテンは大学の保守的な理解での活動では飽き足らず、ウィーンのベルクの下で学びたいと熱望しますが、大学側は母親に「そのような計画は息子のためにならない」と説得し、ブリテンはベルクの下での修業を断念せざるを得ませんでした。後にブリテンが大学側の動機を述べていますがー「その頃イギリスにあった"シアリアル・ミュージック"への偏見が、当時自分の作曲家としての成長を妨げることを避けた行いだった。」ー1963年に語ったこの言葉に彼の事件への理解が示されています。結局、ブリテンの作品は三年間の学生時代を通じてたった一回しか大学内で演奏されませんでした。1934年に20才になったブリテンは作曲で生計を立てるべく決意を新たに大学を後にしました。またこの年はブリテンの父親が亡くなった年でもありました。
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