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〜イギリスピアノ音楽シリーズ U〜
     

 1934年から1941年までの年月は若いブリテンにとって刺激に満ちた年でした。幸運な巡り合わせのひとつにブージー・アンド・ホークス出版社のラルフ・ホークスがブリテンに出版権を与え、初期の困難に満ちた彼の作曲活動を大きく支えたことが挙げられます。1935年にはG・P・O(General Post Office)のドキュメンタリー、短編映画『夜間郵便列車』(Night Mail,1936)での共同製作者である、詩人W・H・オーデンとの出会いがあり、その後およそ7年にわたりブリテンとの多くのコラボレーションなど、年長者のオーデンは芸術面、思想においても若いブリテンに多大な影響をもたらすことになりました。この時代の新しい芸術形式の試みは特に演劇と映画分野において成功し1934年から1939年までにブリテンは18の映画音楽を創作しました。『夜間郵便列車』と『Coal Face』はその代表作といえるでしょう。また1937年には生涯を通してその音楽生活におけるパートナーともいえるテノール歌手、ピーター・ピアーズとの出会いがありました。

「国境を横切る夜間列車です。
小切手や郵便為替を運び
金持ちへの手紙も貧乏人への手紙も
角の店や隣の少女にも.......」

―夜間郵便列車の冒頭より―W・H・オーデン

ブリテンの初期の作品"A Boy was Born"は1934年にBBC放送局で初演を果たし注目を集めました。そして翌年には『弦楽の為のオーケストラ』を発表しますが、オーデンとの共同製作『狩猟をして暮らした私たちの先祖は』(Our Hunting Fathers)が大きな反響を呼び起こし、ブリテンはこの作品を彼の真の"作品1"と自ら認める傑作となりました。ブリテンは常に自作への高い職業意識を持っており、この1930年代後半、彼は映画や演劇の為のそれぞれの場面に相応しい劇場音楽の作曲家として高い評価を得ていました。ブリテンの良き理解者であったピーター・ピアーズは後にブリテンが「作曲家の作品から聴きたかったものは"まほうと効果"だったと述べています。「"まほう"は説明できないが"効果"は優れた作曲家ならば必ず備えているべきものだ。」オーデンとの共同製作はこの頃、いくつも計画され、オペレッタ『ポール・バンヤン』(Poul・Bunyan)は1941年、ニューヨークのコロンビア大学で上演されました。1936年の国際現代音楽協会(International Society of Contemporaly Music)のバルセロナでの音楽際では『ヴァイオリンとピアノの為の組曲』が演奏され、また翌年にはヨーロッパ中で頻繁に演奏されるようになる"フランク・ブリッジの主題による変奏曲"(1937)の演奏のためにザルツブルクを訪れたことなど全般にヨーロッパの聴衆との折り合いは大変好ましいものだったようです。1938年から1939年、英国はもとよりヨーロッパの政治は不安な状況にあり、またこの頃ブリテンが政治にも最も関わった時期でもありました。英国での活動には数多くの理由により不満が募りブリテンは1939年の5月にピアーズと共にアメリカに渡ることを決意するのでした。オーデンのように最初はカナダにわたり、その後まもなくニューヨークに移りました。アメリカの作曲家、コープランドが住んでいたブルックリンにも短期滞在し、その後二年半はロング・アイランドに滞在しました。ブリテン自身、当初のことを「僕は失意の作曲家だった。倦怠感に襲われながら仕事を求めていた。」と回想しています。それでも二年にわたるアメリカ滞在は彼の作曲活動を充実したものにしました。アメリカ時代にはランボーの詩をもとにした声楽と弦楽の為の『イリュミナシオン』(Les Illuminations)(1939)、テノールとピアノの為の『ミケランジェロの七つのソネット』(Seven Sonnets of Michelangelo)などを作曲しました。ピーター・ピアーズとの重要なパートナーシップはブリテンの創作活動においてかけがえのないもので、ブリテンの多くの声楽曲はピアーズを想定して書かれており、彼のために多くの優れた歌曲を生み出すことになります。

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