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last modified:2007-01-18
 
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〜イギリスピアノ音楽シリーズ U〜

”ブリテンと指揮者アルバート・ゴールドバーグ”
1940年1月15日、シカゴでのリハーサル
ブリテンのピアノ・コンチェルト
彼がソリストでの初演
写真提供:ブリテン・ピアーズ・ファンデーション


 1940年代を通してブリテンの体調は思わしくなかったようです。ブリテンは生後3ヶ月で肺結核に懸かり、また心臓にも問題点があり生まれつき決して健康に恵まれた体質というわけではありませんでした。テニスや水泳などのスポーツを楽しみ、エネルギッシュで健康なイメージを持たれがちな作曲家には想像も出来なかった一面でもあります。1941年にE・M・フォースターが"リスナー"誌に寄せた"詩人ジョージ・クラブ論"に触れたブリテンは、これに大いに啓発され、アメリカに永住することを決断したオーデンとは違い、三年のアメリカ滞在のあと、将来を生まれ故郷の島(オールドバラ)で過ごすことを決意しました。

  「クラブを論じるのはイギリスを論じることだ。この詩人はイギリスの海岸を去ったりしなかった…。ロンドンにもあまり行かず田舎の村や小さな町に住み続けた。サフォークの海岸にあるオールドバラで生まれたが、そこは荒れ果てた小さな村で美しくもなんともなかった。高い塔のある教会の周りに古い家々が集まり北の海に向かって村は雑然と広がっていく。入り江の一方には波止場があり、ここから風景はもの悲しくあじ気ないものとなる。果てしないぬかるみ、塩気を含む共有地、湿地に群がる鳥の鳴き声。クラブはあの響きを聴き、憂鬱を眺めており、その情景は彼の詩に映しだされている。」

-フォースターのクラブ論より-  

 ブリテンとピアーズはクラブの作品に目を向け、数年後に完成するオペラ『ピーター・グライムズ』(Peter Grims)(1944〜1945)の着想を練り上げました。ブリテンは後に「自分は根無し草になっていた。」と回想しています。人道主義者、平和主義者であったブリテンとピアーズは英国の兵役を拒否していましたが、それでも2年間戦争を続けているイギリスに戻ることを決意しました。その為に芸術親交協議会のために演奏を行うという条件で兵役を免れ、1942年にイギリスに戻ることを実現しました。この頃より英国作曲家のマイケル・ティペット(1905?1998)と親交を結び共に英国の音楽活動を繰り広げていくことになります。ティペットはブリテンとピアーズのために『少年期の終わり』(Boyhood End)を作曲しました。ティペットは後にブリテンへの敬意を表し、「かつて会った人の中で音楽的に最も純粋な人物だ。」と述べています。ブリテンはイギリスに戻ってからも多くの作品を生み出しました。『聖チェチーリア賛歌』(Hymn to St Cecilia)、『キャロルの祭典』(A ceremony of Carols,1942)、ホルン奏者、デニス・ブレインのために書かれた『ホルンと弦楽とテノールのためのセレナード』(Serenade,1943)、第七B将校捕虜収容所の慰問用に作曲した合唱曲『お小姓マスグレイブとバーナード夫人のバラード』(The Ballad of little Musgrave and Lade Barnard)、そして『ピーター・グライムズ』にも取り掛かりました。大戦が終わりを告げ、オールドバラに定住したブリテンはこの地で多くの傑作を生み出していきました。1945年に"ピーター・グライムズ"の初演が果たされると英国での大作曲家としての地位は確実なものとなりました。『ルクレーツィアの陵辱』(The Rape of Lucretia)、『アルバート・へリング』(Albert Harring)、『ビリー・バッド』(Billy Budd,1951)、『グロリアーナ』(Gloriana,1953)、『ねじの回転』(The Turn of the Screw, 1954)、『真夏の夜の夢』(Mid summer Night's Dream,1960)、『カーリューリバー』(Curlew River,1964)、『オーウェン・ウィングレイブ』(Owen・Wingrave)、そして最後のオペラ『ヴェニスに死す』(Death in Venice,1973)など作品は次から次へと発表されていきました。

  イギリス・オペラをさらに強化するために効果的な方法をとったブリテンはオペラ・カンパニー"グラインボーン"と協力しオペラの監督、上演のための実務能力をもつ人物を周囲に集めました。ブリテンの熱意は彼の音楽活動の各方面に注がれますが、後にヨーロッパの重要なフェスティバルとして成長するオールドバラでの音楽祭の核心を築きあげました。1964年にブリテンはこの音楽祭への想いを次のように語っています。「わたしはこの土地、オールドバラにいてこそ仕事が充実しています。地方のフェスティバルを活気づけ、自分の書いた作品もその聴衆の中に属しています。わたしは様々な人間関係、社会との関わり、人間の背景にある環境、そのルーツなどを信じています。後世のために音楽を書いているのではなく・・・・今、ここオールドバラに住む人々、また音楽を演奏し、聴きたい人たちのために作曲しています。」

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