ことなど出来ませんでしたし、音楽を聴ける機会さえほとんどありませんで
した。そこで彼はピアノラを手に入れ、たくさんのクラシック音楽を収集しました。私はこの機械から流れてくるベートーヴェンのソナタや協奏曲の編曲物などを幼い頃から聴いており、これが私の音楽への興味のきっかけとなりました。" グレシャムスクール(W・H・オーデンやベンジャミン・ブリテンも通ったイギリスの男子・パブリック・スクール)に通った後、バークリーは興味深いことに音楽ではなくフランス語、言語学の専攻で1922年、オックスフォード大学のマートン・カレッジに入学しています。
1926年、オックスフォード大学を卒業した当時のことを、彼は、後のインタビューで語っています。"オックスフォード時代から本当に作曲をしたいと思っていました。自分に何かが出来るのだとしたらそれは作曲をすることであり、あるいはそれが自分の天職だと確信していました。ただ当初はどのようにして本格的な活動の手がかりを掴んだら良いのか少々悩んでいました。その頃、ロンドンに知人と滞在していたラヴェルの紹介を受けることになりました。彼は大変親切に接してくれて、私の作品に目を通すなりナディア・ブーランジェのもとで学ぶように薦めてくれました。" この7年間のパリ時代にバークリーは彼に多大な影響を及ぼし、また親交を深めていくことになる当代の大作曲家、ストラヴィンスキーやプーランクと出会うことになります。彼はまた当時のフランス作曲家"六人組"のミヨーやオネガーとも親交を結んでいます。
バークリーは1935年にパリからロンドンに戻りますが,それから間もなくバルセロナで開催されたI・S・C・M(国際現代音楽協会)フェスティバル(1936)に参加します。そしてその時に彼の音楽にとって将来重要な影響を与えることになるベンジャミン・ブリテンと出会うことになります。彼らはお互いに好ましく影響し合い、二人による珍しい音楽コラボレーション、スペインのカタロニア地方の民謡をベースとした交響組曲"モン・ジュイ"を生み出しました。この曲で二人は細部を打ち合わせた上、バークリーが一、二楽章を、ブリテンが三、四楽章を作曲することになりました。彼らの音楽家としてのキャリアは例えばドビュッシーとラヴェル、ヴォーン・ウイリアムズとホルストのように並列した形で追っていくことが出来ます。ブリテンとの出会いを後にバークリーが述べています。"・・・われわれはバルセロナで出会いました。私たちはお互いに信頼関係を築いていきますが、後に彼は私に大いに影響を及ぼすことになります。私にとってこの出会いは大変重要なものとなりました。彼の生み出す作品にはとても興味がありました。すでにずば抜けたテクニックを持つ音楽家である彼がこれから先、どんな素晴らしい作品を生んでいくのかは見越すことが出来たからです。" 批評家のデスモンド・ショウ・テイラーも二人の関係について後述しています。"私はブリテンのような非常に強い音楽的な個性の持ち主でも事実レノックスの持つあの独特で有り余るデリカシーに満ちた音楽へのアプローチから何かを吸収していったに違いないと考えています。お互いに豊かにしあったに違いないということです。"
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